「エルマリー&ポール基金」レポート(広津侑実子)

21 June 2018
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ニュージーランドで感じ、学ぶナラティヴ・セラピーワークショップ2018 「エルマリー&ポール基金」レポート

                                                                                                                             広津侑実子

 

  • はじめに

臨床ってやっぱり楽しいなあ。早く日本の現場に戻って臨床やりたいなあ。

 

「ニュージーランドで感じ、学ぶナラティヴ・セラピーワークショップ2018」の最終日に、このような気持ちが自然にわいてきた。座学の研修を受けてこんなことを感じることはそうそうないので、嬉しい半面不思議でもあった。しかし、今振り返ると、これはワークショップでの様々な経験や学びから必然的に産まれたものとも思われる。

このレポートでは、今回のワークショップでの経験や学びがどのようなものであったのかについて、特に印象的だったあるエピソードを通じて考えていきたい。

 

  • 心が動かされる(ある出来事の考察)

ワークショップ初日に、私は大きく心をゆさぶられた。今でも鮮やかに覚えている。心が動くだけではなく、身体的にもゆれが起きた。それは、理論的なレクチャーの後に行なわれた、カウンセリングのロールプレイの場面である。講師がカウンセラー役となり、ある受講生のちょっとした悩みを相談するセッションを皆で見守った。私は幸いなことにアウトサイダー・ウィットネスとして他の受講生たちよりも二人(正確には通訳者も含めて三人)に近い位置でお話しを伺わせてもらった。その受講生が持ってきたテーマは現在の親密な人間関係に関するものであったが、セッションが進んでいくうちに、やがて彼と周囲の人とのより広い関係性や歴史にも話が広がっていった。講師が心に浮かんだ言葉を受講生に投げかけると、受講生の心に言葉がしみこみ、またそこから波紋が広がるように、受講生の思いや言葉が深まっていく感じがあった。あたかも、現在の問題はただ独立してあるのではなく、過去の出来事が幾層にも重なっている上に存在しているようにも感じられた。

こんな場に触れて、私はただ一緒にいるだけだったのに、なぜか自然と涙がこぼれてきた。アウトサイダーウィットネスとして冷静にならねばと必死に姿勢を正しても、涙は勝手にあふれてきた。私自身、どちらかというと泣き虫な方ではあるのだが、これまで目の前で(模擬的であったとしても)ケースが進んでいる時に泣くということなどなかった。また、本来ならセッションの後に、カウンセラーやアウトサイダーウィットネスからのコメントがあるはずだが、涙目の講師が少し考えた後で、今回はクライエントが重要な人に自分の言語でお手紙を書くという行為をするだけでこの日は締められた。私もセッションの後に、大事な時間に居させてくれてありがとう、という感想にもならない言葉をなんとか絞り出せただけであった。

心が強く動かされた時間だったのは事実だが、では、ただセッションを聞いただけなのにこんなにも涙が出たのはなぜだったのだろう。簡潔に言えば、おそらく、受講生が自身の人生に触れて心を開いて正直に話そうとしてくれたから、カウンセラーの講師がこの受講生の話を正面からまっすぐに聞き、彼の話のなかにでてくる大事な人々の人生に対しても丁寧に向き合おうとしているから、通訳者が言葉や雰囲気を一つももらさずに皆に媒介して伝えてくれたから、そして、他の受講生も全員が心をこめてこのセッションに同席しようとしたからこそではないかと思われる。そのようにこの場にいる全員が、自分も相手も大事にして、一歩も逃げずにまっすぐにかかわろうとする姿のすさまじさに共鳴して(あるいは圧倒されて)、涙が出てきたのではないかと考えている。また、ナラティヴ・セラピーの手続きを形式的に踏むのではなく、講師が受講生の大事な思いをお手紙という形でまとめさせてくれたこと、アウトサイダーウィットネスの受講生にその場での気持ちをじんわりとかみしめさせて無理に表出させなかったことなど、セッションのなかのちょっとした工夫や気遣いの全てがそれぞれに敬意を払っているようにも思われる。

このような体験から、ナラティヴ・セラピーの多様な技法の背景には、人をきちんと大事にしていく姿勢があるのだと気づいた。このセラピーの特徴の記述の一つに、「人が問題なのではない、問題が問題なのだ」というくだりがある。問題を抱えた人自身に焦点を当てるのではなく、問題そのものを外在化してクライエントとセラピストが取り組んでいくという、中核的な考え方である。しかし、このエピソードを通じて私が気づいたのは、問題を外側に出した時、その反対側には常に“人”がいるということである。問題に取り組み続けてきた人、問題に向き合おうと挑戦してきた人、そんな人に対して敬意を払い、尊重するということが根本にずっしりと横たわっているのではないか。「問題が問題であり、人が人なのだ(問題とは切り離して、人そのものとして尊重される)」という、対人援助職にとっては当たり前すぎることの力に改めて気づかされた。それと同時に、当然過ぎるがゆえに普段はその価値がぼやけてしまっていることに再度向き合わせようとすることがこのセラピーとワークショップの肝であったように自分では感じている。

 

  • 考えが自分にやってくる(考察していくプロセスについての考察)

このような気づきはどのように産まれてきたのだろうか。次に、この出来事にまつわるプロセスから考えてみることにしたい。

ワークショップ初日から大粒の涙を流してしまった自分は、その日の夜から一人で何度も何度もこの出来事の意味を考えた。歩いたり買い物をしている時にふと思いついたことを紙に書きとめたり、パソコンに向き合って数時間かけて文章を書いてみたりもした。他の人に話を聞いてもらったり、単に私が他の人の語りを伺ったりする中で、じんわりとヒントがやってきたこともあった。また、帰国便の長いフライト中にもこの経験について向き合い、ようやく言葉になったこともあった。(もちろん、そんなことをしている時にも、何度も涙があふれてきたのだが)このようにたった一つのトピックについて、色々な角度から何度も何度も向き合う機会を作ったことで、ひとまず自分なりの答えが出てきたように思われる。自分のペースを大事にし、時間をかけることの大切さを感じた。

また、自分の思いにオープンであるということは、私にとっては少しハードルが高い事柄でもある。特に泣くというネガティヴな行為には、蓋をして触れないようにしたり、あえて笑ってごまかしたりしてしまうことがある。しかし、この場では、同じように涙を流した講師が私にそっとティッシュを手渡してくれたり、振り返りの時間で泣いてしまったことを照れ隠しのように謝った時に、他の受講生が、ううん、私も涙が出てきたんだよ、と声を掛けてくれたりした。このような他の人のちょっとした気遣いや率直なかかわりが、自分の思考やあり方を支えてくれたと思われる。

本当に単純に言えば、他者が一緒にいてくれるということが気づきのプロセスには重要だったのだと思う。神田橋條治先生の本のなかに「同行二人」という言葉が出てくる箇所がある。そもそもは四国のお遍路で使われる言葉で、先生は治療者が患者と共に治療の道を歩むという姿勢に関して使われていた。これまでなんだかずっと気になっていた言葉であったが、その自分の引っ掛かりをうまく見つめることはできなかった。今、ここでの経験と結び付けると、これまでの自分は専門家としてクライエントさんに寄り添ってあげないと、という気持ちが強かったように思う。そうではなく、もっと肩肘張らずにいていいのだという意味が込められているのではないか、ということに気づいてきた。

そのような過程の中でまた思い出したのは、そういえば私自身このワークショップの場にいる時に「アウェイ感」を全く感じなかったことである。というのも、私は聴覚障害のある人たちへの手話を使った臨床心理学的支援という超マイナーな領域にいるため、他の人に自分のやっていることや思いが伝わりきらないことがある。自分の説明の仕方が下手くそなので、まあ仕方がないなとも思うのだが、時に不全感が起こったり、逆に、主張しなければと身構えて全身に力が入ってしまったりすることもある。しかし、今回はホームであるかのようにのんびりといられることができた。今回の受講生のなかに聴覚障害・手話関連の現場にいる人は皆無だし、臨床心理学系の人も数名しかいなかったのにもかかわらず、自分の思いを話してみたい、今なら受け取ってもらえるかもしれないと思ったのか、日程の後半の頃には現場での楽しさや悩みについて呟いていた。そうすると、皆が好奇心を持ってじっくりと話を聞いてくれて、私が日々感じている思いに共感してもらえ、心に響くアドバイスまでもらえた。とても暖かな気持ちになった。

このような気づきの過程で、時間を掛けて取り組みことや他者がいることの重要性が感じとられた。しかし、これも決して新しい考え方ではなく、特に対人援助の場では当然なことだろう。にもかかわらず、自分が身を持ってこの考えに少しずつ近づいていけたという経験やプロセス自体も、自分にとってワークショップのなかでの大きな学びであったと思われる。もしかしたら、これはナラティヴ・セラピーを受けるクライエントさんや、ナラティヴ・セラピーの訓練を受ける学生たちの経験と似ていたのかもしれない。

 

  • これからに向けて考えていること

最初に述べたような「臨床やりたいなあ」という素朴な気持ちは、このように全員が等身大で大切にされ、自分の思いに真正面から向き合ってくれる方たちに出会い、一人であるいは他者と一緒に動きまわるなかで、自分の思いや気づきを少しずつ近づく作業があったからこそ産まれてきたのだと思う。これこそ、ナラティヴ・セラピーで第一に大事にされるセラピストの姿勢と思われる。本を読んで頭だけで理解するのではなく、身をもってわかっていったことはとてもよかった。実際、ニュージーランドから戻っておよそ一ヶ月の間、再度臨床の現場に戻って新鮮な気持ちで子どもたちと関わっていると感じる。また、スムーズに言葉にできるようになったり、反対に少し色あせてビビッドに感じられなくなった部分もあったが、そんな変化もおもしろいと思うし、なにより根っこのところ――“人”にまっすぐに向き合って大事にすること、誰かと一緒に対話するなかで気持ちや考えが深まっていくこと――に対する気づきや思いは変わらない。

今後も、ここで感じられた人と向き合う姿勢を日々の臨床の中で使っていきたいと思っている。特に、自分の主なクライエントさんである聴覚障害のある人やろう者は手話という大事な言語を持っているものの、言語・社会など多様な制約を受けてありのままの生き方を制御されがちであったりその人のペースで話すことができなかったりすることがある。また、彼らと聴者との間の関係性や対話も障害者と健常者、被支援者と支援者といった文脈でしか解釈されず、堅苦しくなったり柔軟性が失われたりしやすい。それを越えて、自分には、セラピストには何ができるか、改めて考えていきたい。今のところは、聴こえる私が、相手の言葉や考えのペースを尊重にすること、最後まで向き合うこと、あきらめないこと、相手の人生に寄り添おうとすること、逃げないことが大事ではないかと思われる。

もう一つ、言語化することも大事にしたいと思っている。私は自分の感じたことを言葉にしていくことが非常に苦手である。今回は長い時間を掛けて一つの行為を振り返ったり、このレポートに取り組んだり、涙でしか表現できなかった気持ちを講師や仲間たちが受け取ってくれたりしたことでひとまず言葉で表現することができた。しかし、実践の中でクライエントさんと一緒に言葉を使えるようにするようにはもっとこの作業自体を頑張らないといけないだろう。幸い、ここで提示した以外にも、印象に残ったエピソードは無数にある。それらについても折に触れて考え、感じ、言葉にしていくことは、実践の中でクライエントさんの言葉に耳を傾けられるようになる訓練の一助となるだろう。また、言語化の難しさや苦しさはよくわかっているので、それはクライエントさんとも共感できるかもしれない。

よりナラティヴ・セラピーに特化した理論や技法については、まだ十分言語化できるほどには自分の身にしみこんでいないとも思う。具体的な技法などについては日本の研修や臨床実践の中で時間をかけて取り組み、また自分のものとしていきたい。さらに、ナラティヴ・セラピーの特徴と、これまで自身が学んできた理論や実践とのつながりについても考えていくことも自分が取り組みたいことである。例えば、関係性を大事することや、治療の三角形という語のように、患者と治療者が共同注視するように問題を扱っていく姿勢などは、これまでの訓練や実践のなかでも行なってきている。これまでの知識や実践と今回感じたことや学びとを橋渡ししたり共通性や違いなどについて考察したりすることも、今後の自分自身の課題、もしくは挑戦なのだろう。

 

  • 結びにかえて

Diversity Counselling New Zealand(DCNZ)の国重浩一さん(Kouさん)、バーナード紫さん(ゆかりさん)にはワークショップの運営と通訳という大きな助けをいただいた。The University of Waikatoの講師陣(Dr. Elmarie Kotzé、Paul G Flanagan、Dr. Donald McMenamin、Jenny Snowdon、Gayle Chell)からは生の講義を聞くことができた。中でも、「エルマリー&ポール基金」を与えてくださったエルマリーとポールには経済面でも多大な援助をいただいた。ボランティアスタッフの大串綾さん、白坂葉子さん、横山克貴さんは共に学ぶ機会と多くのサポートをくださった。高校生のかえさんは毎日授業後にYWCAの会場まで駆けつけて細やかに気を配ってくださった。そして、全員の名前は述べられないが、一緒に学んだ19人の受講生とは毎日多くのことを語らいあい、私の涙にまでつきあってくださった。特に同じ奨学生である西村有美香さんとは様々な局面を一緒に過すことができた。Roger Barnard 先生は、ニュージーランドで温かく迎え入れてくださり多くの素敵な方たちとのご縁をつないでくださった。最後になるが、東京大学大学院の能智正博先生は、私がこの研修と基金への応募を迷っている際に、とてもいい機会ですよと背中を押してくださった。他にも、たくさんの方のおかげで多くの学びができたと思う。改めて皆さんに感謝をお伝えしたい。

現場でクライエントさんとお会いしたり、上記の課題に取り組み続けたりする歩みは続いていく。その道のどこかで、きっとまた新たな発見や成長に出会うのだろう。わくわく期待をしながら自分なりに進んでいきたいと思う。

 

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